2人の立ち位置が変わり風は籐依の背中側から吹いてくる。びゅっと冷たい風が吹いた瞬間、追い風を利用して藤依が加速する。右の正拳を顔面に放つがバックステップで躱される。藤依は追撃するように拳打を浴びせるがすべて腕でガードされてしまう。
「ここだ。」
藤依が異倫の顔面を殴ろうと左拳を上げた瞬間、脇が開いたのを異倫は見過ごさなかった。
「解剖学流体術奥義・腋窩破断斬」
異倫が下から上へ打ち出す強烈な一撃。ボクシングのアッパーカットに似るが拳形は四本貫手である。貫手は指を鍛錬していない者が使用すると自分の指を痛めてしまうが、指の鍛錬をしてきた者のそれは凶器に近い。さしずめそれは至近距離から放たれるマグナム弾のようである。
腋窩とは読んで字のごとく脇のくぼみである。腋窩は前壁を大胸筋、小胸筋、後壁を大円筋、広背筋、肩甲下筋、外壁を上腕二頭筋、烏口腕筋を含めた上腕骨、内壁を前鋸筋が構成するくぼみである。この場所には腋窩動静脈、腕神経叢の枝、リンパ節が多数存在する。体幹と上肢をつなぐ要所であるが皮膚は薄く、体表から重要構造物までの距離が近い。普段はさらされることのない場所だが、隠れた人体の急所である。
異倫の腋窩破断斬は人体の中でも無防備な腋窩に四本貫手を打ち込むことで体幹と上肢の結合を破断する。鍛錬を受けていない一般の者であれば腕が根本から吹き飛ぶ。仮に腕が吹き飛ばなくても神経、血管、リンパ管さらには肩関節までもが破壊される。
人が死ぬ間際に時間がゆっくり流れ、その間、走馬灯のように過去の記憶が頭を巡るという。異倫の攻撃は瞬きするほどのほんの一瞬のことであったが、藤依はこの一瞬が引き伸ばされ時間がゆっくり流れるように感じていた。
「このままでは左上肢をもっていかれる。」
致命的ダメージを負うというこの状況に生存本能が全力で抗った結果だろう。藤依の感覚はますます研ぎ澄まされ、自分でも驚くほど思考がクリアで落ち着いていた。